市民に愛される富士宮やきそば麺
富士宮市内のスーパーや量販店で販売されている焼きそば麺は、大手メーカーのものではなく、地元の製麺屋「マルモ食品工業」「叶屋」「曽我めん」「さのめん」のコシのある麺が多くを占めています。富士宮市民は、このコシのある麺でなければ納得しないため、最初に売り切れます。このコシのある富士宮やきそば麺はどのように開発されたのか、振り返ってみましょう。
あの麺の影響から
以前、焼きそばは、お祭りの屋台メニューの定番の一つとして食べられていました。それは、焼きそばの麺が業務用の太麺であったため、厚くて大きい鉄板で、かつ火力がないと美味しく焼けなかったからです。それが1975年4月に東洋水産が家庭用焼きそばとして「まるちゃん焼きそば三人前」を売り出してから一般家庭にも普及し、庶民の味として親しまれるようになりました。
富士宮やきそば麺 開発物語
しかし、富士宮市では1975年以前に「焼きそば」が一般家庭に普及していたのです。それは、独自の焼きそば麺の開発があったからです。戦後、マルモ食品工業(1951年創業)の望月晟敏氏は、インドネシアの戦地で食べた台湾ビーフンの味が忘れられず、それを再現しようと研究していました。
また、富士宮市は、富士山本宮浅間大社(以降「浅間大社」という)の参拝客や富士登山の観光客などが立ち寄ります。更に、静岡と山梨を結ぶJR身延線が通る富士川沿いは、身延山久遠寺の参拝客など昔から人の行き来が多く、食糧等の流通も盛んで汽車を使っての行商も発達していました。
そこで、富士宮の焼きそば麺を観光客が持ち帰ることができたり、身延方面(山梨県)へ販売エリアを延ばしたいと考えました。しかし、昔は、冷凍技術も無く、運ぶのにも時間が掛かったため、日持ちする麺が求められていたのです。
そのような要求に応えるため、望月氏は試行錯誤を重ねました。一般的な焼きそば麺の製造工程では、一度蒸した後に茹でるため水分が多くなって長持ちしません。そこで、焼きそば麺を蒸した後、茹でずに急速に冷やしてから油で表面をコーティングするようにしました。その結果、日持ちがし、富士宮独特のコシのある麺が生まれたのでした。
富士宮やきそばの定着
そして、焼きそばのソースには、その頃イギリスから輸入され普及し始めたウスター系ソースを使いました。また、香り付けなどには地場産品の製造時に出る副産物の肉かす、イワシ削り粉を使用しました。いずれも安く、簡単に手に入る食材を組み合わせて「富士宮やきそば」の原型ができました。(当時は富士宮やきそばという呼称では無かった)
そして、戦後のガリオアエロア援助(アメリカ政府支援)による小麦粉が出回りはじめた中、次第に富士宮市内全域にやきそばが定着するようになりました。
女工さんたちの昼食メニュー
当時(戦後)の市内ではオーミケンシをはじめとした製糸工業が盛んでした。そこで働く女工さん達に、簡単で早く食べられる昼食として好まれたのが、近所の駄菓子屋で食べられる「一銭洋食(お好み焼き)」と「焼きそば」でした。
小学校前の一銭洋食屋さん富士宮市内では学校の周辺を中心に駄菓子屋が何軒もありました。その店内では、おばちゃんが厚い鉄板の上でメリケン(小麦)粉を水で薄めたトロトロの生地を丸くクレープのように焼き、千切りキャベツを載せ、ウスターソースをかけるお好み焼きを焼いてくれました。それは安価に食べることができるため「一銭洋食」と呼ばれ、子どもから大人まで大変人気がありました。
また、焼きそばも一銭洋食と共通の材料を使って調理や味付けをするため、焼きそばとお好み焼きは一緒に広まりました。このように、富士宮市民は子どもの頃から駄菓子屋に行って店内の鉄板の上で焼きそばを焼いてもらって食べ、持ち帰りは洋食(お好み焼き)というのが定番となりました。このようなスタイルは今でも残っています。
焼きそばは「おかず?」
子どもの頃から駄菓子と焼きそばで育ってきた富士宮市民にとって、「焼きそば」は「おかず」であって主食ではありません。富士宮市内の飲食店のメニューには、焼きそば定食が一般的に存在し『焼きそば+御飯+味噌汁』がセットになっています。焼きそばの位置づけは「おかず」またはお酒の「つまみ」なので喫茶店から居酒屋・スナック等どんなジャンルの飲食店に行っても富士宮やきそばがメニューにあり、食べられます。富士宮市民の飲み会では、最後の締めはラーメンではなく「富士宮やきそば」なのです。
コシのある富士宮やきそばの普及
前述の通り、一般的な焼きそば麺は「茹で麺」であるのに対し、富士宮やきそばは「蒸し麺」という製法により作られます。これは製造工程で、蒸した後に麺を急速に冷やし、油で表面をコーティングして麺の水分を少なくし、日持ちし、コシのある麺を作るものです。戦後の冷蔵技術が乏しい時には、日持ちのする麺として重宝し周辺地域まで普及しました。
しかし、「蒸し麺」の製造工程は手作業が多く、労力や時間を要します。そのため、オートメーション化が難しく、大量生産が求められる時代にあっては大手企業や他の地域には普及することなく、富士宮独特の「蒸し麺」として残りました。
一方、食習慣の変化、多様化、少子化等により富士宮市内の製麺所も徐々に少なくなり、3つの製麺所のみとなりました。
その後、「富士宮やきそば」の認知度も上がり、製麺所での生産量、販売量などの増産が行われ、市外・県外にでも売られるようになり、一度閉業した木下製麺所も復活(2016年屋号を「さのめん」に変更)。現在では富士宮市内に4つの製麺所が存在します。
戦後から受け継がれる100年フード
文化庁にて公募の「100年フード宣言」に、「富士宮やきそば」で応募し、令和4年3月3日に採択が決定致しました。
100年フード宣言とは、「我が国には、豊かな自然風土や歴史に根差した多様な食文化が存在しており、文化庁では、その中で特に歴史性のあるものを文化財として登録する取組を進めています。一方で、全国各地には、比較的新しいものであることなどを理由に文化財として登録されていない食文化であっても、世代を超えて受け継がれ、長く地域で愛されてきたものが多く存在しています。本事業では、そのような食文化を「100年フード」と名付けるとともに、地域の関係者や地方自治体が100年続く食文化として継承することを宣言する「100年フード宣言」の取組を推進していきます。」
参照元:文化庁公式サイト
富士宮やきそばとしては、「未来の100年フード部門~目指せ、100年!~」部門での認定。
富士宮のやきそばの歴史は戦後のルーツを辿ると100年はもうすぐ目前です。